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仏教は宗教ではない ― お釈迦様が教えた完成された科学 (Evolving) 新書

内容

イケダハヤトがスリランカ仏教長老に人生相談?!

お釈迦様の直々の教えを伝える、スリランカ上座部仏教
アルボムッレ・スマナサーラ長老
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86世代のオピニオンリーダー、プロブロガー
イケダハヤト氏

宗教とは何か?自分とは何か?生きることの意味は何なのか?

「宗教」「仏教」の疑問から「自我」「死生」まで、イケダハヤト氏がスマナサーラ長老へ直球インタビュー。

(まえがき イケダハヤト より)

「仏教は宗教ではない」。挑戦的なタイトルに響くかもしれません。

本編を読んでいただければわかるとおり、「仏教は宗教ではない」というのは、誇張でも「釣りタイトル」でもなんでもありません。スマナサーラ長老の解説のとおり、初期の仏教において、宗教性はむしろ否定されており「神頼み」や「呪文」を抜きにした、現実的な教えが語られているわけです。

経営者のなかには「論語」を愛する人がいらっしゃいますが、お釈迦様の言葉というのは、論語と同じレベルで、人々に愛されてしかるべきものだと思います。現時点でそうなっていないのが残念ですし、とてももったいないと感じます。それどころか「仏教が好きです」というと、それだけで「宗教っぽい……」と近寄りがたいイメージを抱かれることすらあります。

一方で、2014年という時代を迎えて、あらためて、ブッダの残した教えに光が当たりつつあるような気がしています。それは、日本において仏教を飾ってきた色とりどりの宗教性が、資本主義・科学的合理主義によって剥ぎ取られ、かえって本来的に仏教(=ブッダの教え)がもっていた教えが「発掘」されたのだと思います。様々な色に塗りたくられた神仏が、時代とともに劣化し、もともともっていた美しい木目を伴って現れた。そんなイメージでしょうか。

今回の対談は4時間をかけて行われました。異例の長さだと思いますが、ブッダの教えを紐解くには、まだまだ時間が短すぎます。ぼく自身も勉強を重ね、さらに本質的な問いを発することができるようになりたいと思います。その暁には、もう一度ぜひ、スマナサーラ長老とお話をする機会をいただきたいと願っています。

こういうことを書くと仏教関係者に怒られてしまうかもしれませんが、ぼくにとってブッダの教えを学ぶことは、「知的なエンターテインメント」といっても過言ではありません。人間精神の本質を、世界の成り立ちの本質を覗き込む気分に駆られます。スマナサーラ長老が教えてくれた数々の考え方は、目から鱗がぼろぼろと落ちるものであり、対談を終えた今も、ぼくのなかに生きています。

長老は多数の著書を記しています。本書を入り口にして、ぜひ初期仏教の豊穣で洗練された世界に足を踏み入れてみてください。「ブッダの教え」がなぜこんなにも長く残っていつかが、よく理解できると思います。

 




目次
まえがき イケダ ハヤト
第一章 仏教は宗教ではない ~ お釈迦様が教えた完成された科学
お釈迦様の完成された科学
拝んでも意味はない
洗脳とマインドコントロール
危険な宗教に洗脳されない方法
神様だと言い始めたら終わり
ホンモノとニセモノ ― スマナサーラ長老のコラム
宗教だらけの日本
なぜ生命を殺してはいけないのか
殺生と生きる意味
涅槃は言葉で表現できない
思考の次元を超える
「あぁ、解脱したい」と感じる4つの瞬間」 ― イケダハヤトのコラム
自我と死の恐怖
死と生は流れているだけ
輪廻転生を考えるのは時間の無駄
何のためにぼくらは生きるのか ― イケダハヤトのコラム
第二章 やさしく自由に生きる智慧 ~ 理性を育てて幸福を目指す
自分の頭で考えて生きる
生きにくい日本社会
限りない願望で苦しむ原因
希望と欲望 ― スマナサーラ長老コラム
犯罪者の思考パターン
自殺は負け
テクノロジーと道徳
誹謗中傷を褒めてしまう
自分を切り離すぼくの方法 ― イケダハヤトのコラム
お釈迦様の喧嘩にならない対話法
人を嫌うということ
怒りのエネルギー
怒りは心の自動発火装置 ― スマナサーラ長老コラム
あてにならない権力者
理想の政治
自由になる
「私は自由ではない」という妄想 ― イケダハヤトのコラム
自己犠牲は道徳違反
仏教と宇宙
仏教と量子論
幸せと無常
あとがき スマナサーラ長老